愛のない人生

愛のない人生を過ごしてきたことに気がつきました。

 

母には愛されていると思いたかったし、

父も家族を大事にしていると思いたかった。

 

けれども、どれも幻想でした。

 

母は私を愛していたというよりも、

理想の家族や理想の子供を愛していました。

 

私自身を愛してなかったように思います。

私が外でそれらしく振舞うことを求めていました。

私が成功することを求めていました。

 

けれど、私のためではありません。

そうすることが、母の理想の子供像だったからです。

 

私の私自身の求めることには全くの無関心でした。

それは、母が求める私ではないから。

 

理想の服を着せ、理想の学校に通わせ、理想の家に住まわせ、理想の職業に就かせる。

母は本気で、それが私の幸せだと信じているけれど、それは結局、母の幸せであって、私の幸せではないです。

 

母の望むことをできなかったり、嫌がったりすると、決まって母は私にそっぽを向きました。

罰を与えるつもりなのでしょうか。

 

母の思い通りに私が動かないと、

「わかったわ。思い通りにしなさい。

そのかわり一切手助けをしませんからね。」

という具合に。

 

そして、私が困っていても本当に気持ちの面で何も助けてくれはしません。

たまたま、私が考える方向に物事が上手いこと進んでも、結局は母の手柄になるだけです。

 

わたしは母の愛に支えられて生きているような幻想を抱いていました。

 

けれど、親の無償の愛を受けることはできなかったのです。

ギブアンドテイク。

 

私の母が、私に求めているのは、ギブアンドテイクな関係にいつしかなっていました。

 

母は耐えられないんだと思います。

もちろん、当たり前だと思ってはいけないことは、沢山あると思います。親子の関係でも。

 

けど、無理して偽りの支援をし続けて、見返りがないと親が子どもを攻めることより、理不尽なことはないと思います。

親の方が苦しくなって、子どもを、愛せなくなるくらいなら、

無理な支援はいらないと思います。

 

そんなことより、私の気持ちを汲み取って欲しいし、私の気持ちを大事にしてほしい。

親ができる精一杯の愛情は、上手いレールの上に乗るようムチで子どもをしごいたり、

無理なレールに乗せるために大枚をはたくことじゃないと思います。

 

そんなことより、子どもが自分の人生のレールを敷くのを暖かく見守って、

子どもがレールのための鉄くずや木を集め、疲れて帰ってきても暖かく迎えてくれて明日からまた頑張れると思えるような、

暖かい家を、家族がまっている暖かい家庭を親は子供に与えればいいだけだと思います。

 

成功するには子どもの時から親の支援が必要な分野が多いのは事実だと思います。

子供にできるだけ多くの選択肢を与えてあげるのも親の役目だと思います。

 

けれども、成功することより、なにより。

子どもが充実した人生を送れるように、暖かく包んであげるのが親の役目だと思います。

 

もう、私は大人です。

けれども、それでもまだ、親という存在、母という存在に苦しめられる日々です。

望んでいるレールからはみ出してはいけないプレッシャー。はみ出してしまった後、自分はまだ成功していると母に思わせなくてはいけない、偽りの自分。

 

本当に私として、私自身として。

成長しろという前に、私であることを受け止めてくれる、母に出会いたかった。

 

認めたくなかったけど、母は私の望んでいるように、私を愛してはくれませんでした。